古都出身マラクニマンの刹那の日誌…客観的な観察と、時に暴走する情動が交錯する…呂蒙は云った「士、三日会わざれば刮目して見よ」…都落ち寸前、ラスト落ちサムライが今宵討ち入る…かもしれない。


by harapin56

美意識。

自分の子ども時代を思い返してみて…
一言で、「くそガキ」でした。
故に、たくさん親に叱られました。
一番叱られたのは、ごまかした時・正直に言わなかった時だったと思います。
鬼のような形相をした父に、よくこんな台詞を言われたのを記憶しています。

「ばれなきゃ何してもいいのか!?ばれたから『ごめんなさい』と言うのか!?」

多くのごまかしをしました。
例えば…
習い事で水泳をやっていたのですが、途中から普通に遊ぶほうが楽しくて、行くのが嫌になってきました。
「もう辞めたい…」
素直にそう言えばよかったのですが、その当時の私はなぜかそうせず、行った振りをすることにしたようです。
具体的には、公園の水で髪の毛と水着を濡らして、さも、行ったように見せかけて帰宅する…という感じです。
結局は、月謝を払いながら一月まったく来ない私を心配してかかってきた一本の電話によってその悪行はばれてしまい、大目玉を喰らいました。
それが、小1、つまり7歳の時でした…。
また、こんなこともありました。
当時私は塾に通っていたのですが、これも前と同様、行くのが億劫でした。
「行かないと怒られる…」
そう考えた私は、やはり行ったことにする、という手段をとりました。
しかし、その塾はタイムカードなるものが義務付けられており、当日行ったかどうかはそのカードを見れば一目瞭然です。そこで、私は考えました。
塾に真面目に通う友達にタイムカードを渡しておいて、押してもらう。通園かばんは当時住んでいたマンションのメーターボックスの中に忍ばせておく。
→帰りの時間に待ち合わせをして、それを受け取る。と、同時にノートをコピーしておく。
→メーターボックスからかばんを拾い、さも、くたびれた様子でドアを開ける。
これも、結局は、灯油を入れようとたまたまメーターボックスを開けた母の目にかばんが映り、ばれて大目玉を喰らいました。
小3の時でした…。

くり返し言いますが、私はくそガキでした。

そんなくそガキ時代を経た私ですから、私ほどの知能犯ではないにしろ、子どもはごまかすこともする…というのは理解しているつもりです。
それが、良いか悪いかは別問題として、ですが。

良いか悪いか…という話が出ましたが、結論から言えば、現在の私はこれに関して当然『悪い』と考えています。
上述したような犯行当時はまったくこの『悪い』という感覚がなく、だから、親に叱られたのですね。

では、この『悪い』のは何が『悪い』のか?
一つは、『ごまかす(嘘をつく)』=『悪い』です。
そしてもう一つ。
これが、今回テーマにしたいことなのですが、『ばれる→謝る』=『悪い』です。
これは、つまり、
『ばれないなら何をしてもいい』・『ばれたと確信するまでは謝らない』
ということを意味します。

今、実は京都でこれに沿った問題が発生しています。
それは、寺院への落書きです。
国宝や重要文化財の柱や壁に容赦なく落書きがなされているのだそうです。
(個人的にはこんな輩は死罪にすべきだと思いますがね…)
この落書き…当然人が見ている間にはなされません。
誰も見ていない隙になされてしまいます。
悲しいかな、大人にも、『ばれないなら(見られていないなら)何をしてもいい』という感覚があるのです。
子ども時代散々同様の悪行を働いてきた私には言う資格はないかもしれませんが、敢えて今の私の感覚で言わせてもらえれば、この価値観は『卑しい』というその一言に尽きます。まったくもって美しいとは思えませんし、極端に言えば人間性を疑います。
こういったことをする人たちは、残念ながらそのことが『卑しい』という教育を受けてこなかったのでしょう。そして、歪曲した個人主義の下で育ったのだと思います。
もちろん、いい大人なのですから、悪行を働いた本人たちの責任なのですが、
「一概に彼らだけを責められないかな…その彼らを囲んでいた大人たちにも同様に罪はあるのではないかな…」とも思います。

以前の日記にも記しましたが、やはり子ども時代の周囲の大人の価値観はとても大切なのだと、改めて感じます。

さて、つらつらと書き連ねてきましたが、なぜ今回このテーマを扱おうと、私が考えたか?
それは…悲しいかな、同様のことがうちの校舎でも発生したからです。
別にうちだけではないのですが、校舎の備品への落書きは禁止しています。
(公共の場においては、そのすべてが同様だと思います)
それなのに、園生は落書きをしていました。
ただ、目の前で行われたのだったら深刻にはとらえません。
「ばれる(見られている)とわかっていてやる」のですから、ただの横着者としてガツンと叱り飛ばして終わりです。

今回、違ったのです。

そう、私の忌み嫌う、「ばれなければいい」・「見られてないからやる」という感覚が彼らにはあったのです。
彼らは白板の裏という普通に考えたらまったく考えもしない(最もばれにくい)ところに落書きをしていました。

確かに今、彼らは、「ばれなければいい」・「見られてないからやる」というスタンスに立っています。
しかし、本来日本人が美しいとする感覚はその逆にあったはずです。
日本人は、「ここにお金を入れてください」という看板のみの無人の野菜販売所のざるの中にお金を入れていく文化を持っていたのです。
「見られてないから変なことができる」ではなく、
「見られてないからこそ、変なことはできない」…それを美しさとする文化を持っていたのです。

何の縁かはわかりませんが、また、生まれは様々かもしれませんが、彼らは現在日本で育ち、私の在籍している校舎で授業を受けています。
そんな彼らには、どうにかして、この価値観・この思いを伝えたいと思います。

過去、信じてもらっては裏切る…そんなことの連続だった私です。

同じことを今度は私がされることは覚悟しています。
しかし、それでも、やはり彼らを信じたいし、そして信じるでしょう。
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by harapin56 | 2007-09-06 03:26 | 自己発信