古都出身マラクニマンの刹那の日誌…客観的な観察と、時に暴走する情動が交錯する…呂蒙は云った「士、三日会わざれば刮目して見よ」…都落ち寸前、ラスト落ちサムライが今宵討ち入る…かもしれない。


by harapin56

しつけ【子の教育】。

宮崎県知事が示唆した『げんこつ条例(簡単に言えば、体罰容認条例かな?)』がちょっとした話題にあがっている。
どこまでがしつけで、どこからが体罰になるかという線引は別問題として、私個人としては、これの実現化を肯定したいと思う。
それは現職が殴る側だから?と言われるかもしれないが、それは違う…と言いたい。
確かに今の私には子はいないが、仮に親として我が子を人に預ける立場だとしても、同じことを主張することは想像に難くないからだ。
「どうぞ、我が子が悪さをした時には、ぶん殴ってやってください。」
と、寧ろお願いしたい。

今の子はあまりにも殴られなさすぎるのではないかと思う。
そして、それは、ただ肉体的にだけではなく、精神的にも…だ。
殴られるということは、肉体にダメージを受けることを通じて、精神にダメージを受けることだ。
子どもは苦痛を感じるし、『もう殴られたくない、恐い』
と思うだろう。
こういうことを言うと、口で説明すればわかる…という人がいる。
その人達は、自分の子ども時代を忘れている…そしてその結果、子どもを天使ごとく捉えすぎている。
本当に、説明に納得して悪さをしなかったか?
いや、きっとそうではない。
大人ならわかる理屈でも、子どもにはわからないものがたくさんある。(ま、最近は大人ですらわかっていない例もたくさんあるが…)
子どもとは、仮にわかっていてもやりたい生きものなのだ。
少なくとも自分はそうだったが。
では、なぜ好奇心に満ちて悪さにも手を出したい子どもが、それを抑制できたのか?
簡単に言えば、『それをすると後が恐いから』…だ。
つまり、しでかしたことに対する罰・ないしは、怒られることへの『恐怖心』に因るのだ。
恐いからしない…それだけなのだ。
確かにずっとこれでは困るが、いずれ、なぜいけないかを言葉を用いた論理で理解できるようにはなる。
体で理解せずとも、言葉(話し合い)でわかる…それが動物から人間になるということなのだ。
言い換えれば、子どもは生まれながらにして人間なのではなく、教育を経て動物から人間になるのだ。
子どもがきちんと話し合いができるようになるまでは、動物なのだから、体で覚えさせればいい。
これが私の教育論、それは教師としてだけではなく、親としても、の教育論だ。
一昔前ならば、学校で先生に叱られたならば、それを子どもが親に報告するなんて考えられなかった。
なぜなら、報告した瞬間、先生からくらった分の3倍もの叱責が待ち受けていたからだ。
先生に叱られたことは親にはばれないよう努めたものだ。
しかし、今は、叱られた生徒の親が学校(教師)にクレームを入れる時代になったらしい。
「叱ってくれてありがとう…」ではなく、「なんで、叱ったんじゃ!?」と来るとのことで、いやはや信じられない。。。
確かに、一昔前に比べて教師にも変なのが増えてきたから、我が子を守るのに必死な気持ちもわからんでもない。
しかし、それを考慮しても、なお不可思議な感じがする。
親は叱らない、そして親がクレームを言うから、教師も叱れなくなる。
これではその子は叱られたことのない子になる。
必然的に、恐怖心をいだかない子になる。
そんな子が、誰の言うことを聞くというのか?
それで、社会で、集団の中でやっていけるのか?
いや…無理じゃないか。
そうして今のこの状況があるんじゃないか…。
親が賢くなれば問題ないが、このままなのだったら、冗談抜きで『げんこつ条例』有りなんじゃないの?…と思わずにはいられない。
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by harapin56 | 2008-06-25 02:32 | 自己発信