古都出身マラクニマンの刹那の日誌…客観的な観察と、時に暴走する情動が交錯する…呂蒙は云った「士、三日会わざれば刮目して見よ」…都落ち寸前、ラスト落ちサムライが今宵討ち入る…かもしれない。


by harapin56

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あなふぁっく。

心を込めて書いたぞ。
子どもらに、保護者に気付いてほしくて、知ってほしくて、考えてほしくて。

全部消しやがった…。
お上は思想を語るなと言いたいのか?
それとも、親からクレームでもきたか?

…腐れ外道が。

もう二度と書かん。
代わりに削除したおまえらが書けや。

くそ・・悔しい。力がない。ただただただただ、悔しい。
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by harapin56 | 2007-09-20 22:05 | 自己発信

子どもと会話する時間。

さて、今回は子どもとの会話について徒然なるままに書き記しましょう。
(お母さん、お父さん方に読んでほしいと思って書いています。)
前々から薄々感じていたのですが、最近やたらと「自分の子どもとの会話を大事にしましょう!」的な話や記事を目にしませんか?
また、それが、特に低年齢層のお子さんをお持ちの保護者さんや、俗に問題行動を頻繁に起こす中高生のお子さんをお持ちの保護者さんに向けられている気がしてならないのですが、いかがでしょう?

「何がいけないの?当に大切なことじゃない!?」
と思われるかもしれませんが、ちょっ…と待ってください。。。

大切じゃないと言ってるわけじゃないのです。
でも、私はこの「子ども(ここでは被扶養者と定義します)との会話を増やせ」というのは甚だ『?』です。
というのも…子ども時代に会話をたくさんして、その子が大人になったらぱったり会話をしなくなった。。。なんてことをよく聞くからです。

これ…意味なくないですか?
もう一つ言うと、逆の方がよくないですか???

そう…大切なのは、その子が大人になった時に、その子をきちんと一人の人間として認識して会話ができること・・・ではないでしょうか?

こう言うと、
「そのために、子どもの時にたくさん会話をするんだ!!」
とお咎めを喰らうかもしれませんが、
本当に子ども時代にたくさん会話することが、大人になってからの会話に継続的に繫がりますか?それは必要充分条件ですか?

私はとてもじゃないですが信じられません。
だって、私、子ども時代に叱られてばかりいましたよ?
もちろん会話がなかったわけではありません。
でも、総合的に見れば圧倒的に叱責を喰らってた時間のほうが長かったです。
そんな私が今、父や母と一人の人間として受け入れられ、また私も受け入れ、対等にたくさんの話をしています。

だからこそ、私には単に子どもと会話する時間が多ければいいとは思えないのです。

気になったので、たまたま日本に帰ってきていた父に聞いてみました。
(うちの父は一年の半分は海外に居る、所謂、単身赴任というやつです)
父は、こう言いました。

子どもが何の教えも受けずきちんと人間として育つなんて考えていない。人間は生まれもってして人間じゃないんだ。教育を受けて人間になるんだ。始めは猿と同じだ。だから、お前を叱るということに関してはとても神経を遣ったよ。その代わり会話に気を遣ったことはなかったな。。子どものお前の言うことなんか、まともに信じちゃいなかったし、まともに取り合う気だってなかったし。でも、お前は将来きっと自分を愛し人に愛される人間になる、生まれてきてよかったと思えるし思われる人間になる…それは信じていたよ。子どもを信じるってことは、別に彼らの言動を信じるということではなく、可能性を信じることじゃないか?それだけでいいんじゃないか?子どもの時にわかってもらおうなんて思ってないし、それが重要なんじゃない。将来その子がその時の意味を理解し、それを誇りに思えることが重要なんだ。そう思えたその子は、だってもう立派な一人の人間じゃないか。こっちも人間、お前も人間。当然会話もまともにできるし、その時間も濃いものになるさ(笑)

あぁ…そうだな。と私は納得できました。
今の私がそうですから。

と、同時に…子どもとの会話でお悩みの皆さんは、深く考えすぎではないのかな?と思いました。
我が子の可能性だけを信じ、子どもである我が子に「お前は子どもなんだ」と毅然と在るがままに接する…
けっこう単純なところに正解はあるのではないかと思います。
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by harapin56 | 2007-09-20 02:39 | 自己発信

結婚ボンバイェ( ゜_゜)

周り見渡せば、身を固めゆく人々がうじゃうじゃといる。
不思議なのは、できちゃった婚ではないこと。

今一度汝に問う…
「何故若くして自らを拘束せんとす哉?」


もうえぇのん?
まだ遊べるよ?
結婚してからももちろん遊べるけど、リスク高いよ?不倫…ぇえけど、しんどいし、相手傷つけるよ?


結婚って年貢の納め時じゃねぇの?
そうやってするからその後割り切れるんでないの?

と、今の自分は考えているわけで…。

ま、しかし当の本人達にとってはめでたいことなわけだから、
別に横槍いれる必要もないやね。
今の俺がこんなこと宣っても、僻み・やっかみ…ととられかねんしね。

北斗神拳伝承者曰く、
『お前はもう…死んでいる…』

まぁ…I M M ( -_-)y~~~
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by harapin56 | 2007-09-19 09:39 | 自己発信

【5回裏】獲得と喪失。

『何かを得るということは同時に別の何かを失うことである。』

↑誰だ?こんなことを宣った哲学者は?

馬鹿野郎………
ある意味真実じゃないか(笑)。

必ずしもそうではないにしても、確かに失わないとも言えない。
それを音楽を聞いていて気付かされた。
気付きの到来は前触れ無くいつも唐突にやってくる。
まるで、事故である。


思春期に読んだ本を、時が経ってから改めて読み返すとまた違って感じられるのと同じなんだろう。

巷に溢れる恋の歌。。。
特に、素直に想いのたけをストレートに綴った歌。
今までは…そうだな、
「わかるわぁ~(;´Д⊂)ぅぅぅ!!」と同調する、自分に重ね合わせることでその曲を理解した。
ずっとそうやってきた。


ある日。
同じ曲を聞いているのに立ち位置が異なっている自分がいた。

決して、曲がわからないわけじゃない。
けれども、そこに自分を重ねることはできなくなっていた。

その時、その一瞬…。
自分は純真を失ったことを悟った。
不思議と絶望感はない。
でも、少し淋しかった。


もう…こんな風に熱く突っ走ることはないんだな…


そうなんだから。

絶望感がないのは、スレたことが、そんなに悪いことじゃないと思えているからだろう。
この景色はそれはそれでまたいいもんだ。

大人は純真を失っていく。それが普通で、純真そのものな人を見かけると、「青いな…」と少し軽蔑の眼差しを送る。
大人になるってのは妥協を覚えることだろう。
でも、もう自分にはないからこそ、
「羨ましいな…」
とも思うんだ…。

あぁ…
親父やマスターが、俺を諫めつつ、応援してくれた気が今わかった。

そして、俺もそうするんだ…きっと。。。(◎-◎;)
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by harapin56 | 2007-09-12 20:42 | 自己発信
脳内において、好きと嫌いの出所は同じらしい。
うんまぁ確かに、嫌いな理由を幾つ並べても、その人のことを頭の中から追い出せない経験はある。。。

つまり、「好き」だろうが、「嫌い」だろうが、「気にしている」…という点においては同じだものな。。
愛憎表裏一体とも言うしな。。

ふぅ~む・・・・(´・д・`)
と、すると・・・・・
特に何も感じない(好きか?…と言われれば、ま、嫌いじゃないけれども…)ってのは逆に「脈無し」を意味するわけだな。
Out of 眼中!!・・・・・・・なわけだ。

明智さんにとって、『敵は本能寺に在り!』だが、
我にとっては、『主導権の把握は、気をひくことに在り!』だな。
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by harapin56 | 2007-09-10 19:21 | 自己発信
特に何をしたかったわけでもないけれど、不意に母親と喋りたくなったから、
「なんか、ご飯食べさせてくれんね?」
と家に帰ってみた。簡単なものでよかったのに、
「今日は屋外で鉄板焼きよ!」
と母、張り切る。。お~ぃ…母よ…うちら二人しかおらんぞ???

食事って、どこの家でもそうだと思うけれど、うちでは特に会話のツールとしての要素が強い。
食べるものが大事じゃないわけじゃないけど、その「食べる」という時間の共有に重きを置いている。
食べながら…近況をつらつらと報告していて(うちは結構親子間でえぐい話もする)、
母、曰く…

「あなたは、釣りで言うなれば、針にかかってからはいいのよ。でも、針にかからせる術を知らないのよ。。。
あなたの誠実さ…それは悪いことじゃない。けれど、そればかりでもいけない。
それはね、本当に大切にすべき人が見つかった時のためにとっておくの。
あなたは若いのだから、もっともっともっともっと今は色んな女性を知りなさい。そして、その中で、あぁこの人…という人を見つけていきなさい。ま、私ほどのいい女はいないと思うから、そういう意味で私を基準においたらダメよ!(←ぉい…。。)
また、色々な女性とコンタクトを取る為のさっき言った術を研究していけばいいのよ。
あんたはいい奴だけど、色気がないんだから、まったく…。
お父さんを見なさい…あんなんでも、魅力的なんだから(笑)」

父よ…母よ…
真実をズバズバと物申されるが…
今、将に水がスポンジに染み渡るが如く納得することができるよ。

ところで…おそらく、他の家庭から見れば、うちってきもい???
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by harapin56 | 2007-09-10 14:08 | 自己発信
あるところに…
明らかに可哀想な女が居て、明らかに不幸な女が居て…
そんな女を目の前にしたら、そしてその子が少し可愛かったりなんかしたら…
男は自ら不幸の穴に嵌りに行こうとする、そういう馬鹿な女を放っておけない。

その時男はこう考えている。
「自分がこの状況から彼女を救ってやらなきゃ…!!
 自分がやらなきゃ…誰もやってやる奴なんざ居ないんだから…!!」

男は阿呆で、実はそうでもないことなんか、考えもつかない。

でも、刹那にしろ、そんな風に勘違いしてしまう。

悲しいかな。それは愛じゃないことに気づかない。。。気づきたくない。。。
それは、捨て猫を放って置けないのと同じなのに…。。。ただの同情なのに…。。

つくづく…男って奴ぁ…阿呆だと思う。
自分もその阿呆のone of them だったのだから、言えた義理じゃないのだが…。
8月は熱っぽくって、苦かった。
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by harapin56 | 2007-09-09 01:35 | 自己発信

美意識。

自分の子ども時代を思い返してみて…
一言で、「くそガキ」でした。
故に、たくさん親に叱られました。
一番叱られたのは、ごまかした時・正直に言わなかった時だったと思います。
鬼のような形相をした父に、よくこんな台詞を言われたのを記憶しています。

「ばれなきゃ何してもいいのか!?ばれたから『ごめんなさい』と言うのか!?」

多くのごまかしをしました。
例えば…
習い事で水泳をやっていたのですが、途中から普通に遊ぶほうが楽しくて、行くのが嫌になってきました。
「もう辞めたい…」
素直にそう言えばよかったのですが、その当時の私はなぜかそうせず、行った振りをすることにしたようです。
具体的には、公園の水で髪の毛と水着を濡らして、さも、行ったように見せかけて帰宅する…という感じです。
結局は、月謝を払いながら一月まったく来ない私を心配してかかってきた一本の電話によってその悪行はばれてしまい、大目玉を喰らいました。
それが、小1、つまり7歳の時でした…。
また、こんなこともありました。
当時私は塾に通っていたのですが、これも前と同様、行くのが億劫でした。
「行かないと怒られる…」
そう考えた私は、やはり行ったことにする、という手段をとりました。
しかし、その塾はタイムカードなるものが義務付けられており、当日行ったかどうかはそのカードを見れば一目瞭然です。そこで、私は考えました。
塾に真面目に通う友達にタイムカードを渡しておいて、押してもらう。通園かばんは当時住んでいたマンションのメーターボックスの中に忍ばせておく。
→帰りの時間に待ち合わせをして、それを受け取る。と、同時にノートをコピーしておく。
→メーターボックスからかばんを拾い、さも、くたびれた様子でドアを開ける。
これも、結局は、灯油を入れようとたまたまメーターボックスを開けた母の目にかばんが映り、ばれて大目玉を喰らいました。
小3の時でした…。

くり返し言いますが、私はくそガキでした。

そんなくそガキ時代を経た私ですから、私ほどの知能犯ではないにしろ、子どもはごまかすこともする…というのは理解しているつもりです。
それが、良いか悪いかは別問題として、ですが。

良いか悪いか…という話が出ましたが、結論から言えば、現在の私はこれに関して当然『悪い』と考えています。
上述したような犯行当時はまったくこの『悪い』という感覚がなく、だから、親に叱られたのですね。

では、この『悪い』のは何が『悪い』のか?
一つは、『ごまかす(嘘をつく)』=『悪い』です。
そしてもう一つ。
これが、今回テーマにしたいことなのですが、『ばれる→謝る』=『悪い』です。
これは、つまり、
『ばれないなら何をしてもいい』・『ばれたと確信するまでは謝らない』
ということを意味します。

今、実は京都でこれに沿った問題が発生しています。
それは、寺院への落書きです。
国宝や重要文化財の柱や壁に容赦なく落書きがなされているのだそうです。
(個人的にはこんな輩は死罪にすべきだと思いますがね…)
この落書き…当然人が見ている間にはなされません。
誰も見ていない隙になされてしまいます。
悲しいかな、大人にも、『ばれないなら(見られていないなら)何をしてもいい』という感覚があるのです。
子ども時代散々同様の悪行を働いてきた私には言う資格はないかもしれませんが、敢えて今の私の感覚で言わせてもらえれば、この価値観は『卑しい』というその一言に尽きます。まったくもって美しいとは思えませんし、極端に言えば人間性を疑います。
こういったことをする人たちは、残念ながらそのことが『卑しい』という教育を受けてこなかったのでしょう。そして、歪曲した個人主義の下で育ったのだと思います。
もちろん、いい大人なのですから、悪行を働いた本人たちの責任なのですが、
「一概に彼らだけを責められないかな…その彼らを囲んでいた大人たちにも同様に罪はあるのではないかな…」とも思います。

以前の日記にも記しましたが、やはり子ども時代の周囲の大人の価値観はとても大切なのだと、改めて感じます。

さて、つらつらと書き連ねてきましたが、なぜ今回このテーマを扱おうと、私が考えたか?
それは…悲しいかな、同様のことがうちの校舎でも発生したからです。
別にうちだけではないのですが、校舎の備品への落書きは禁止しています。
(公共の場においては、そのすべてが同様だと思います)
それなのに、園生は落書きをしていました。
ただ、目の前で行われたのだったら深刻にはとらえません。
「ばれる(見られている)とわかっていてやる」のですから、ただの横着者としてガツンと叱り飛ばして終わりです。

今回、違ったのです。

そう、私の忌み嫌う、「ばれなければいい」・「見られてないからやる」という感覚が彼らにはあったのです。
彼らは白板の裏という普通に考えたらまったく考えもしない(最もばれにくい)ところに落書きをしていました。

確かに今、彼らは、「ばれなければいい」・「見られてないからやる」というスタンスに立っています。
しかし、本来日本人が美しいとする感覚はその逆にあったはずです。
日本人は、「ここにお金を入れてください」という看板のみの無人の野菜販売所のざるの中にお金を入れていく文化を持っていたのです。
「見られてないから変なことができる」ではなく、
「見られてないからこそ、変なことはできない」…それを美しさとする文化を持っていたのです。

何の縁かはわかりませんが、また、生まれは様々かもしれませんが、彼らは現在日本で育ち、私の在籍している校舎で授業を受けています。
そんな彼らには、どうにかして、この価値観・この思いを伝えたいと思います。

過去、信じてもらっては裏切る…そんなことの連続だった私です。

同じことを今度は私がされることは覚悟しています。
しかし、それでも、やはり彼らを信じたいし、そして信じるでしょう。
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by harapin56 | 2007-09-06 03:26 | 自己発信

大人として。

(8月末に会社のHPに載せた校舎日記より…)

こんにちは。
夏期講習会→合宿→夏期講習会と目が回るほど多忙な夏がようやく一段落しました。
もうまもなく後期が始まろうとしています。半年なんてアッ…と言う間だったなぁ、と今となっては思います。
さて、今回は『厳しさという強さ』・『優しさという弱さ』について、つらつらと思ったことを記そうと思います。

唐突なのですが、最近…
「子どもを叱らない人」、「どう叱って良いのか、叱り方のわからない人」をよく目や耳にします。

突き詰めていくと、どうやらそれは、「子どもとどう接してよいのかわからない」ということになるようです。
だから、子どもに物申さぬ…または物申したとしても子どもにとってはちんぷんかんぷん意味不明で叱責の意味がない、ということになるのだそうです。

「もしかしたら、『目線の移行』が上手く行えない(整理できていない)結果なのでは?」
私はこの原因をそうとらえています。
目線とは、つまり「子どもと同じ目線」と「大人として子どもを見る目線」の二つです。
「子どもと同じ目線」にしか立てない人は、叱るべき時に叱れず、結局は子どもになめられてしまいます。ま、子どもは子ども故にそんな大人を総じて「優しい」と口では言いますが…。
一方、「大人として子どもを見る目線」にしか立てない人は、叱るべきタイミングを無視して叱り、子どもに無意味な恐怖心を与えたり、反発心を生んだりします。
私は、「大人が怖い」という感覚は子どもにとって大切なものだと考えていますが、いっつもかっつも怖い存在でいる必要はないとも考えています。
私は、この両方の目線が大人には必要なのだと思います。そしてある時は、「子どもの目線」で、またある時は「大人の目線」で、整理をつけて子どもに接することが彼らの成長には大切なのだと思います。

「塾の先生なのに!」と怒られるかもしれませんが、私は普段、子ども達とくだらない話をたくさんしています。昨日見たテレビのこと、好きな球団のこと、恋沙汰、サブカル的知識…数え上げればキリがありません。大いに笑い、大いに悲しみ、そうして共通の話題を謳歌しています。
と、同時に授業内では国語を教えています。この時は勉強する時間ですから、場を乱す言動、周囲の人を傷つける言動をとる奴には当然厳しく接します。時には…泣き出す子も出たりします。
僕は何も叱ることが好きなのではありません。けれども、「ほんの一瞬でも子どもの成長にかかわっている大人として」言わねばならないと思うが故に言い放ちます。
子どもだからそんなこともするよな…と気持ちはわかりますが、
→『だから』、「まぁ、いいか…」と言わないのではなく、
→『しかし』、それでも言います。

「我慢できないなら、受験なんてやめちまえ。」
「やりたいことしかしないなら、人間じゃなくて犬や猫といった動物と同じだ。」
「勉強してもらってるわけじゃない。お前がしたくないなら、どうぞ自由に遊べばいい。それが導き出した結果にはしっかり、自分で責任取れよ。後で人のせいには絶対にするなよ。」
などなど。。。

その子が嫌いだからではなく、最終的によくなってほしいから、好きだから言います。
もちろん、前にも述べましたが、言ってて気持ちいいもんじゃありません…。

こんな偉そうなことをのたまっていると、
ある人にこんなことを言われました。

「あなたはこんなに若くして、また、子どももいないのに、そんなにはっきりとこうすべきだなんてよくも言えますね!?」

…それに対する私の答えは以下の通りです。

「私は、確かに子どもを育てたことはありません。けれども、一人の子どもとしてしっかりと育てられたことはあります」

散々親に迷惑をかけてきた私ですが、その当時はわからなかった親の私への接し方・在り方に今は誇りを持っています。
故に、意識しているわけではないのですが、私は自分の育てられた通りに子どもに接しています。自分が言われた台詞を自分が今度は言っている…なんてことがよくあります。

子どもらは実は大人をよく見ています。見抜いている…というべきでしょうか。。。
何を?・・・それは「その大人の器の大きさ」なのだと思います。

「あの先生・・厳しい。けど…好き」
その言葉が私にとっては最高の承認です。
まだまだ、一教育者として、または未来の親として、完璧に出来ているなどとは口が裂けても言えません。
けれども、このスタンスは、この拘りは、決して失うことなく接し続けよう…そう思っています。
誰かに何かを言われ、それによって本気で子どもを叱れなくなったら…その時は教育者を辞めます。
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by harapin56 | 2007-09-06 01:18 | 自己発信

妄想特急珈琲行。

朝目を覚まして、あなたはご飯をつくってくれていて、
僕はその横で寝ぼけ眼で珈琲を点てる。

あなたの横顔を眺めながらしばらく幸福感を感じていると、
あなたは恥ずかしそうに、つくりにくい…と言うのだ。

ずっとこんな日が続けばいい。
…そう願うけれど、それを感じることを失う瞬間が来る。
僕のいれた珈琲は、もうとっくに冷めてしまった。

身近な幸せを手に入れることは容易なれど…維持することはとても困難だ。
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by harapin56 | 2007-08-29 00:33 | 自己発信